無気力症候群
ふと、ボールに触れたくないと思う日が稀にある。本当、稀に。長く続くことはない。ボールに触れたくない…憎しみや怒りなど、そういった感情というものが理由ではない。ただ、なんとなく、触れたくなくなるのだ。
無気力感、そんな言葉が良く似合う。その原因は…いまだによくわかっていない。それに、それが始まったのは、ここ最近のことではない。
初めてそれを感じたのは、幼いころだった。
小さな村での暮らしで、サッカーボール代わりに使っていた小石がさっぱりといっていいほどキャッチできなくなったり、試合のような練習でもボールに触れたくなくて、いくつかゴールを許してしまったこともあった。そんな時期があったのを今になって思い出す。
不調に気付いた先生はその時、何を言い、どうしたか…正直そこまで覚えていない。きっと先生のこと、何かしらの事をしたのだろう、と思うのだが、本当に、頭の中に、記憶にないのだ。ただ、それはいつの間にか解消されていた。
触れたくないという気持ちは一切消えていた。
ボールをキャッチすることが楽しくて仕方がない。そんな幼い日のことを思い出す。
それが初めてだった。
その後、時々こんな無気力感に襲われることはあるものの、すぐにいつもの調子を取り戻す。今回もそのはずだった。
しかし、そうではなかった。
そんな優しいものではなく、全身を覆い尽くすような無気力感。動くのも億劫で動作が鈍くなる。思考も鈍麻になり、身体の節々に鉛が仕込まれているような、無気力感。何もしたくない、何もできない自分がそこにいる。幸い、シーズン中ではないのがありがたい。今の自分に、他チームの猛攻を防ぎきれる自信がない。
そう、自信がない。
溢れんばかりに満ちていたあの、絶対的自信は今や枯渇した池のように一滴の水もない状況に酷似している。
早く、早くどうにかしなくては、と焦れば焦るほど深みにはまって抜け出せなくなる。
無気力を患って早くも一週間が過ぎた。
「………はぁ…」
ため息とともに帰宅するミューラー。暗い部屋に明かりを灯し、その身体をソファに沈める。顔は赤く、吐息からはアルコールの匂い。
「このままじゃダメなのはわかってる」
誰に言うわけでもない独り言。それを聞いているのは自分だけ。ぼんやりと部屋を照らすルームランプを眺めた。
休め、と言われた。
他でもない、監督から…。
言葉が出なかった。反論しようにも、今の自分にそれができるほどの力はない。説得力もない。ただ、目を見開いて、監督の顔を、動く口を呆然と見つめることしかできなかった。
――ミューラー、おまえの実力は知っている。それが十分世界に通用することも、一過性ではないことも、もちろん知っている。ただ、今のおまえはどうだ? 自分でも気づいているんだろ? だからあえて言わない。…少し、頑張り過ぎだ。身体と心がバラバラな状態で良い結果なんか得られない。ミューラー…休め。一週間、いや、二週間でもいい。他の奴らに比べると少ないかもしれないが、それぐらい休んでこい。ボールから距離を置いて…息抜きでもしてこい。そして、万全な状態で帰ってこい。
やはり、監督は何でもお見通しで、それが逆にミューラーを苦しめる。
不甲斐ない……。
その一言に尽きる。なにが、鋼鉄の巨人だ…己はこれほどまでに、つまらぬ無気力感に襲われ、何一つできぬ赤子ではないか。
ミューラーは絞り出すように返事をすると、練習途中であるにもかかわらず、荷物をまとめると、そのまま練習場を後にした。
――必ず帰って来いよ。デューター・ミューラー…
監督の声がどこか遠くに聞こえた。
「………はぁ…」
あの後、結局アパートに帰ることはなく、飲み明かし、時計はもうすでに日を跨いでいた。
「休んで…どうこうなる問題じゃないだろ……」
先生、どうしたらいいですか。
幼いころの記憶を探るが、アルコールの回った頭では何も出てこない。スポーツバッグの中には気まぐれに買った旅行雑誌。ソファに横たわったまま、横に置いてあるバッグの中身を漁ると、それを取り出す。酔った勢いで購入したため、それらに統一感がない。ヨーロッパを流れたいのか、南米に行きたいのか、それともアジアか…。
頭が痛む。
時間と共に徐々に後頭部が痛みだす。揺れる視界に、痛む頭…。
ああ、ダメだ……。
ミューラーは雑誌を投げおくと、そのまま目を閉じる。どうしていいかわからぬ無気力感とそれに伴う不安にうなされる夜を過ごすのはこれで何日目になるのだろう。
翌朝、見事に二日酔いに悩まされたミューラー。頭痛とむかつき、そして倦怠感。纏わりつくそれらを払いのけ、何とか熱いシャワーを浴びれば、幾分気分はすっきりした。
今日から休み…果たして、この二週間をどう過ごせばいいのだろう。気付けば長期の休みなど、そう貰ったことはない。
さて、どうしたものか…。
水分をたっぷりと含んだ長い髪を、乱暴に拭きながら、彼はリビングに戻ってくる。投げ散らかしたスポーツバッグと、旅行雑誌。手早くバッグを片づけると、テーブルに乱雑に置いてある雑誌に手を伸ばした。買った記憶はあるが、それを読んだ記憶はない。
適当に一冊手に取るとペラペラとめくる。煌びやかに、華やかに、それぞれの地域の名所を紹介してある。しかし、彼は写真しか見ておらず、説明まで読んでいないため、それが何なのかまでは分からなかった。
昨日より気分は幾分まし。せっかくなので、やはりどこかへ行こうという気持ちになりつつあった。
イタリア、スペイン、フランス…ブラジルにアメリカに中国、日本…いや、いっそのことどこかの島でゆっくり過ごすという手もある。
雑誌をめくっては、頭の中で観光名所にいる己を想像するのだが…なぜだろう。なにか、物足りない。何かがスッポリと抜け落ちた、そんな感覚。それが何であるか、ミューラーには分からない。
また襲ってくるあの無気力感。せっかく芽生えた気持ちもいつの間にか枯れ果てた。何をするか、どこへ行くか、そんなことを考えることすら億劫になってくる。
ただただ、無情にも時間だけが過ぎていく。
そんなある日のこと、洗濯物を干していたミューラーの携帯が鳴る。手を止め、ディスプレイを見れば、そこにはシュナイダーの名前。今、この不甲斐ない己を見せる勇気はない。それゆえにこれを無視することも出来る。そうして後日、落ち着いた時にまた掛け直すことだってできる。だが、その間、シュナイダーはあられもない想像にとりつかれてしまうだろう。なんだかんだ彼も心配性なのだ。
ミューラーは躊躇いがちに通話ボタンを押した。
「…Hallo」
耳に入る彼の声が、どことなく安心させる。声を聞く前まであったあの戸惑いや迷いは彼の声を聞いた瞬間薄れて消えた。
ミューラーも彼と同じように言葉を返す。
「どうしたんだシュナイダー」
彼が電話をしてきたということは何かしらの用事があるに違いない。…いや、そうとは限らないか……、ミューラーはそんなことを考えながら彼の言葉を待つ。
「…ミューラー、大丈夫か?」
「………は?」
いつになく真剣な声に、不可解なセリフ。大丈夫…? 大丈夫とは何のことだ。彼に心配されることがあったであろうか。
ミューラーが彼の意図が掴めず頭を捻っていれば、はっきりと、彼は自分の不調を言い当てた。
強張る身体に、背を伝う冷たい汗。頭から血が引く音がする。カラカラに乾いた口を何とか動かし、ミューラーは一言、なぜ、と問う。それが精一杯だった。
「あ…気を悪くさせたらすまない。…その、肖から聞いたんだ」
「肖…?」
「ああ、どうやらあいつがな、そっちのチームにいる…なんて言ったかな……イ……イ…」
「李龍雲か?」
「そう、そんな名前のやつから聞いたらしい。彼が心底心配していたと言っていたから…」
李龍雲…確かにチームメイトである。もちろん話をすることもあるが不調のことを無気力感のことを彼に伝えた覚えは一度もない。態度だっていつもと変わらぬようにしていたつもりだ。
しかし、実際彼は気付いていた…そんなに心配されるほどに己の不調は表に出ていたのか…。そう思うだけで気分が落ちる。
「それで、肖のやつ……俺の針で治してやる、とか言い出して…止めるのが大変だったんだ」
「…ああ……針は…嫌だな」
健康診断の採血ですら嫌なのに…とぼやけば、携帯電話の向こうで笑い声が聞こえる。
「で、大丈夫なのか? 体調が悪いとか……」
「いや、体調じゃない。身体はいたって元気なんだが……うん…まあな…」
この無気力感をどう表現していいのかわからない。
「休み…」
「え?」
「休みを…貰ったんだ。二週間ほど。休憩が必要だって…」
「……ミューラー…」
シュナイダーの声が悲哀に満ちたものへと変わる。余計な心配をさせてはならぬと、ミューラーはつとめて明るく振る舞う。
「二週間も休んだことなかったから何をしたらいいかわからん…」
旅行雑誌を買ってみたんだが、どうもな。そういって電話を片手に雑誌をひらく。
「ミューラー…二週間…と言ったな」
これまたシュナイダーの声音が変わる。表情が見えないので、彼が何を考えているか想像しがたい。
「あ、ああ、二週間と言っても、あと一週間と少ししかないが…」
「じゃあ、あと一週間は空いてるわけだ」
「ま、まぁそうなる…」
予定は何もない。ただ、ぼんやりと過ごすのだろうと思っていた。
「オレも行く」
「…はぁ?」
突然何を言い出したのか分からないミューラー。いや正直に言えば彼のセリフの意図が理解できなかったと言った方が良いだろう。
しばらく考えたのち、彼の言葉の意図が、わかった。
「い、いや、でもシュナイダー! おまえそんなに休めないだろ!」
「なんとでも、どうとでもなる。あ、じゃあそろそろ練習が始まる。また明日」
「お、おい!」
シュナイダーはミューラーの言葉を聞かず、一方的に電話を切った。話の展開についていけないミューラーは携帯電話を持ったまま呆然と立ち尽くす。有言実行を絵に描いた様な男だ。きっと何かしらの行動を起こすだろう。
しかし……
「……あ、洗濯物…」
ミューラーは考えることをやめた。
彼の行動は自分の想像をはるかに超えた場所にある。考えるだけ無駄なのだ。しかし、どこかスッキリとした表情をしているミューラーは干しかけの洗濯物に手をつけた。
本当に彼は来た。
相変わらず何も持たずに、彼は自分の目の前にいる。ミューラーはその姿を見た瞬間から開いた口がふさがらない。
「…昨日、オレはきちんと伝えたからな」
オレも行くって。リビングのソファでくつろぐ彼。手にはミューラーの買ってきていた旅行雑誌がある。
「本当に、来るとは、思わなかった」
「約束は守る」
いや、約束と言うほどのものでもないんだが、とミューラーが言えば、彼は行くと言ったら行くんだ、と暴君のようなセリフを吐く。
やれやれ、何を言っても無駄だと悟った彼は軽く首を振り、テーブルにコーヒーカップを置くと、彼の前に差し出した。
「で、どこい行くのか決めたのか?」
ダンケ…と彼は言うと、出されたコーヒーを一口。シュナイダーの顔にうっすらと笑みが浮かぶ。
だいぶ、コーヒーの味も彼好みになってきてしまったようだ。どんどん、時間と共に、彼に染まっていく自分がいる。
怖いとか、気持ち悪いとかそういったものは一切ない。ただ、自分がどこに向かっているか、それがわからぬ不安は常に付きまとう。
「いや、まだ決めていない」
ミューラーも彼につられて一口飲む。苦味より酸味の強いコーヒー。ミューラーもまたそれを好んでいた。
「たぶん、どこでも良いんだろうが、その、なんか、んー……なんと言ったらいいか…」
よくわからない物足りなさがある。言葉を濁しながらそう伝えれば、彼は首を傾げた。
「物足りない?」
「そう、例えば………」
テーブルに置いてある雑誌を無造作に一冊取り上げ、適当にページを開く。すると、大きくでかでかと載っている写真を指差し、シュナイダーに見せた。
「例えば、ここに行こうかなとおもうだろ? でもここに行って何をするのか。ただ見に行って終わりなのか…それともそこで何かをしたいのか……おれにはよくわからないんだ。目的が曖昧で気持ち悪い。それなら別にここじゃなくてもいいだろ? でも…行きたい場所もなければ、やりたいこともない。それにさ、ここにいることを想像しても……やっぱり何か…大切なものが足りなんだ」
「…………」
「…おれはどこにも行きたくないのかな……」
カップの中に揺れるコーヒーをじっと眺める。
今の自分は本当に調子が悪い。彼にこのような事を言っても仕方がないのは分かっているが、それでもなぜか、ポロリポロリと出てきてしまう。
こんなことになるならば、黙って村に帰るべきだったのかもしれない。思考はどんどん深みにはまり、ズルズルと良くない方向へ引きずられていく。ダメだとわかってはいても、それを切り替えることは、今の自分には難しいことだった。
「もし、もしおまえがどこにも行きたくないなら……」
ずっとここにいるか。一緒に…。
こういう時ばかり、彼は痛いほどに優しいのだ。己のつまらぬ我儘に付き合うほどの余裕、彼にありはしないだろうに。いつもの我儘で振り回してくれればいいものを、こういう時だけは本当に、優しい。いや、本当は気付かなかっただけではないだのか。彼の優しさに目を向けなかっただけではないか?
自分は、自分には、まだ、知らないことがある。
時間と共に、共にいることで知っていくこともあれば、行動を起こさねば知ることのできない一面もある。
すべてを知ることなど出来はしない。しかし、知ろうとすることは、自由だろ? 彼のことを知りたい…そう思うことは贅沢なことであろうか…。
「ハンブルク……」
「ん?」
ミューラーは自分自身なぜそれを口にしてしまったのかわかっていない。シュナイダーだけでなく、彼自身驚いたような表情をしている。
「どうしたんだ、急に」
「あ、その………ハ、ハンブルクに行きたい…な、なんて…」
理由は、特に…ないんだが…。
頬を掻きながらミューラーはボソリと言った。明確でわかりやすい理由は本当にない。ただ、女々しい感情がそこにあるだけ。
ただ、おまえが知りたいだけ…など、口が裂けても言えるものか…。
「ハンブルク…別にいいけど、行きたいところとかあるのか?」
「いや、行ってみないとわからんな。特に行きたいと思う場所もないし、試合で行ったことはあるが、まあ観光なんてする余裕もなかったし…それに北の方にはあまり行ったことがない……。自分で言っておいて、あれだがな」
「……ふん…」
シュナイダーはしばらく、何かを考えるように黙り込んでしまった。声音や表情からすれば、気分を害しているようには見えない。眉一つ動かさず、宙を見つめる彼の邪魔をするほどミューラーも無粋ではない。そっと、雑誌をめくる。さして興味も何もない煌びやかな写真に目を通しては、その説明を読む。
心揺さぶられるようなものは何もなかった。
「そうだな。ハンブルク…行こうか。ついでにブレーメンにも行かないか?」
「ブレーメン?」
ハンブルクだけでなく、ブレーメンまで…。ミューラーに断る理由はないのだが、なぜ、なぜと聞きたくなる。それが表情に出ていたのか、彼はクスッと笑った。
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