Jr.ユース大会も準決勝戦となった4日目、ウルグアイ戦を控えたシュナイダーはスタジアムの中を急いでいた。マリーの刺繍してくれたタオルを、移動のバスの中に置き忘れるという、彼らしくない失態を犯してしまったためである。汗一つかかずに顔色を変えることもないまま、シュナイダーは早足にロッカールームに向かい、廊下の角で何かにぶつかった。
「あっ…」
声を聞いて、シュナイダーは人にぶつかったと認識し、慌てて離れようとした。
「すまない」
シュナイダーは相手に謝ろうと顔を上げた。だが、ぶつかった瞬間に、シュナイダーの顔は何かに埋まっていた。しっかりとした硬さがあるのに、表面はふんわりと柔らかく、どこか懐かしい匂いのする何かに。
心地好い温もりに戸惑いながらも一歩下がり、シュナイダーは自分が誰かとぶつかった挙げ句、その胸元に顔を埋めてしまったことに気付いた。しかも、背中を支えるように手まで添えられている。いわば、優しく受け止められてしまったことにも。
「おれは大丈夫だ」
返って来た言葉に背を押され、ようやく顔を上げて、シュナイダーは見たこともない相手だと知った。シュナイダー自身、そう背が低い訳ではないため、見上げるような相手に会うのは珍しかった。その顔が思ったよりも幼く、優しい声の印象に合っているのもあって、思わずしげしげと見入った。
「じゃあ」
「あ…ああ」
足早に立ち去る相手を見送ってから、我に返ったシュナイダーは、ロッカールームへと急いだ。
その相手こそ、幻のキーパー、デューター・ミューラーだとシュナイダーが知ったのは、ウルグアイ戦の最中だった。フリーキック直前、交代GKとして現れたミューラーは、周囲がざわつく中、堂々と現れた。一瞬目が合った、とシュナイダーは思った。あの通路での邂逅が嘘のように険しい顔だ。
「カベはいらない」
言い切ったミューラーの眼差しに、強い確信を見て、シュナイダーは言う通りにするよう味方に告げた。
果たしてミューラーは、ビクトリーノのシュートをワンハンドキャッチして、シュナイダーに直接ロングスローパスを送って来た。もちろん期待を裏切ることなくシュートを決め、前半終了を迎えた。
「Guter Schuss!」
「Guter Torwart!」
シュナイダーがキーパーを讃えるのは、若林以来のことだった。フィールドに登場した時の険しい表情が嘘のように、すれ違いざまに交わした笑顔に、シュナイダーはミューラーについての逸話を脳内で掘り起こす。
西部の山奥でひっそりと腕を磨き、山から降りるのを嫌がったという話だが、それもそうだろうと納得した。まるで、山で見る空のように、澄み切った瞳だった。
ウルグアイ戦は大差での勝利で幕を下ろした。幻のキーパーに対する関心は高く、ミューラーの周囲にはシェスターをはじめとする選手が集まっていた。それでもシュナイダーが皇帝の威厳で歩み寄ると、ミューラーも気付いた様子で顔を上げた。
「良いシュートだったな」
「ありがとう。今朝もすまなかったな」
礼を言った瞬間、シュナイダーの脳裏に浮かんだのは、あの時の心地好さだった。しっかりと支えられながらも、奇妙な柔らかさで包まれた感覚に、何だか懐かしい匂いがした。昔、子供の頃に両親と行った山小屋で、干し草のベッドで眠った。干し草は太陽の光を吸い込んで、日だまりのような匂いがしていた。それは、幸せな記憶だった。
「シュナイダー、どうかしたのか?」
「いや、何でもない」
動揺を悟らせることなく、シュナイダーは微笑んでみせる。だが、その内心は違っていた。
鉄面皮の下で、皇帝シュナイダーはミューラーの胸のことを考えていた。
15歳とは思えない程恵まれた体のミューラーだが、あれは反則だとシュナイダーは思った。試合でもまた家族とも抱き合うが、あんなに気持ち良いものがあって良いのか。もう一度触ってみたい。いや、むしろ、ハグして欲しい。そして、ぶつかった時の、あのため息めいた声も、あの時のちょっとはにかんだ表情も、もう一度。
「この大会、必ず優勝しよう、ミューラー」
優勝すれば、当然ハグ位する。そんな脳内コンピュータの演算結果をおくびにも出さずに、シュナイダーは言った。普段よりも力が入っていても、それは決勝戦を控えた気合いの結果だと解釈される自信もあった。
「ああ、そうだな」
無邪気に笑い返すミューラーは、自分の胸に向けられたシュナイダーの視線には気付いていない。
師匠から山を降りることを許されたミューラーが、まずこの大会に参加したいと思ったのは、シュナイダーがいたからだった。師匠から、同じ年代No.1のストライカーだと聞いていたシュナイダー。直近で見て、シュートだけなら取れるだろうが、そのプレーに感銘を受けた。自分なら、敵のシュートをキャッチした後、直接にパスを送ってやれるのにともどかしくなった。そして、見事に自分の期待に応えてシュートを決めたシュナイダーに、ミューラーはどこか誇らしいものを感じていた。
「よろしく、ミューラー」
固く握手を交わし、見つめ合った二人が、お互いの思惑が相当違うことに気付くのはずっと後になる。もっともその頃には、二人の関係は恋人に変わり、ミューラーの立派な胸はシュナイダーに好き勝手に揉み扱かれていたのであるが。
(おわる)
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