彼が酔いつぶれるところを見るのは正直初めてだった。平然とした、顔色一つ変えずに飲み続ける彼を止めなかった自分も悪いかもしれないが、それでもまさかつぶれてしまうなど思いもよらなかった。
目の前にいる、テーブルに突っ伏したまま寝息をたてている男をミューラーはまじまじと眺めたあと、この状況をどうするべきか思案するのであった。
なんの連絡もよこさず、ふらりとやってくるのはシュナイダーの癖。はじめのうちは文句の一つも言ってやっていたところだが、いつの頃からかそんな文句すら言うのが面倒になってきた。今では快く……とまではいかないが、すんなりと受け入れるようになったミューラー。今回もそんな感じで、彼を部屋に迎え入れた。迎え入れたのは良いが、1LDKの一室に大の男が2人。2人とも特に用事らしい用事もないようで、ソファに腰掛け、言葉数も少なくTVを見ていたのだが、それではなんだか味気ない。このままボンヤリと部屋で過ごすのも時間がもったいない、という話にもなり、2人でシュトゥットガルトの街へ繰り出す。
街の外れにある古めかしい住処を出て、のんびり歩いて行く。街の中心部まではそんなに距離はないものの、住宅が入り組み、高低差の激しいこの地域は足腰鍛えるのにはもってこいだった。それ故ここに住むことにしたのだが。狭い道についている階段を上り下りしながら、ミューラーはどこに行こうかなどとシュナイダーに投げかけるが、彼はフッと笑って、お前と一緒ならどこでも…という、どうにもならない返事が来る。こうなると、ミューラーもどうしようもない。ならば…と、まだ陽も落ちきっていないが、二人は居酒屋へと足を運んだ。部屋で飲んでもよかったのだが、わざわざ、せっかくシュナイダーが訪ねてきてくれたのであれば…と、ミューラーなりの気遣いをみせる。まあ、せっかくと言っても列車で2時間程度の場所ではあるが…。
「Prost」
なみなみ注がれたビアグラスをカチリとならし、彼らは一気にそれを呷る。気持ちよいぐらいに冷えたビールが喉を通っていく。その感触がたまらなく好きだった。
フウ…とシュナイダーが一息つけば、さっきまであったビールが半分に減っていた。
「相変わらず、良い飲みっぷりで…」
「ちびちび飲んでても仕方がないだろ」
そう言うと、グラスをおいてもう一度大きく息を吐く。そして、本当に嬉しそうに笑うのだ。
いくつかある居酒屋の中からミューラーは何となく、行きつけの店を選んだ。たとえ陽が落ちてなくとも、いや、真っ昼間からでも、ドイツの居酒屋は人が多い。しかし、ミューラーの行きつけといえば、比較的人が少ない。人混みがそんなに得意でないミューラーと、ドイツで知らぬ者はいない、というほど顔の知れ渡ったシュナイダーだ。二人でいるときには無意識に人混みを避ける傾向にある。
店内に人はまばら、皆それぞれ話に花を咲かせたり、1人でアルコールを楽しんだりと、入ってきた2人に視線どころか、気すら向けない。それが丁度よかったりするのだ。彼らは店内の隅の方にある座席に腰を下ろし、とりあえずビールと軽食を注文する。ビールはすぐに運ばれてきた。
「久しぶりだな、ミューラー…」
「そうだな。元気そうで…」
シュナイダーの熱のこもった、やや掠れぎみのため息にも似た声がミューラーの耳に届く。これは、もしかした外に出たのはまずかったかもしれない…ミューラーは内心そう思うも、今更引き返すわけにもいかない。ここまで来たからにはもう、どうしようもないのだ。
他愛もない話をしながら、ミューラーはシュナイダーを見つめる。彼がなぜ突然やってきたか自分には分からない。彼に聞けば手っとり早いのだが、そのタイミングをなぜか掴めずにいた。こんなときに口下手な自分が恨めしく思う。今分かることと言えば、少なからずシュナイダーの機嫌がよく、若干熱がこもっているということだけ。それくらいしか分からなかった。サッカーが絡まない限り、ポーカーフェイスのシュナイダーから彼の感情を読みとるなど至難の業なのかもしれない。そんなことを考えながら、整った顔を眺めていれば、フッと彼と目が合う。
「なんだ?」
彼の透き通った緑かかった青い瞳に言葉のすべてを奪われた。いや、言葉だけでなく思考のすべてを持っていかれる。自分に会いに来た理由もこのタイミングで聞けばいいもののその言葉、台詞すら出てこない。自分では太刀打ちできない。こういったプライベートでは、このような関係では、きっと一生自分は彼に勝てない気がする。そんな瞳をしていた。
「あ、いや、その……」
久しぶりだな…。シュナイダーの台詞をそのまま繰り返すミューラー。何と言っていいのか本当に分からないのだ。サッカーの話でもすればいいのか? それとも、もっと別の話題があればいいのか? ミューラーの困惑ぶりはもちろん目の前の彼にも伝わっているようで、ミューラーを眺めながらクッと笑みを漏らす。
「何だよ…」
「ん? ああ…ミューラーの顔が面白いなと……」
「…面白くて悪かったな」
「いや、面白いというか…うん、可愛いな、と…」
彼は時々、こんな不思議なことを言う。100歩譲って面白いは認めよう。しかし、可愛いと言ってくるのは後にも先にも、この若き皇帝以外にいないのだ。ただたんに酔っぱらっているからといえなくもない。
そんな何ともいえぬ、さして盛り上がりもしないテーブルではあるが、彼は淡々とグラスを空けていく。この短時間で彼は何杯のグラスを空けたことか。次から次へとビールグラス行ったり来たり…。反面、軽食はさして減ってもいなかった。彼が酔うところなど見たことはないため興味はあるが、やはり、このハイペースで飲まれれば、あまり身体に良くない酔い方をする。ミューラーはなんとか彼の手を止めようと四苦八苦するも、彼のペースは変わらずだ。それでいて、いっさい顔に出ないものだからなお質が悪い。
「シュナイダー、飲み過ぎじゃないか?」
もう何杯目の空グラスだろう。途中で数えるのも面倒になり、自分のグラスを空けることも忘れて眺めていった。そして、結果がこれだ…。目の前の男はいつの間にかテーブルに突っ伏していた。よそ見をしたその一瞬の出来事。それまでは、ミューラーの捻りだした話題にふんふんと相づちを打っていたのに、ほんの一瞬、目をそらした瞬間、彼はダウンした。
「………ほらな…」
寝ているのだろう、規則正しい穏やかな呼吸音が聞こえてくる。さて、どうしたものか、ぜんぜんアルコールのまわっていないミューラーはため息を吐いて考える。このまま、彼が目を覚ますまで待つか、それとも、背負ってでもいいから連れて帰るか…。彼はしばらく突っ伏している男を眺めた後、ゆっくりと席を立った。
そんなに蒸し暑くないシュトゥットガルトの夜。そのせいか、背中に大の男を負って歩いてもたいして汗もかかない。山の中で鍛えられた成果なのか、彼の体重などそんなに苦痛でもない。
結局彼はここに何をしに来たのだろう。ただ、飲みたいのであれば、彼の住む街でいくらでも飲めるはず。そんなに重要な話をした記憶もなく、最近の調子とか、身の回りであったことなど…そして時々サッカーについてなど、ちまちま言葉を交わしただけ。互いに口下手…なのだろうか。少なくとも自分は下手だと思う。しかし、彼はどうなのだろう。話すのが得意というわけではなさそうだが、かといって苦手ということでもなさそうで…。
「…ああ、おれか……」
となると、彼の口数を減らす原因は自分しかない。自分の何が悪いか、まあ、性格…は置いておいて、とにかく、自分の何かが彼にあまりよろしくない影響を与えているのではないか。素面であるが故に、思考はいろんな方向へ枝を伸ばす。そして、どんどん自分の気持ちが沈んでいくのがわかった。そうなってしまえば、這い上がるのが難しい。自分の何が悪いのかさっぱりわからず、暗い思考に囚われトボトボ歩くミューラーの背中で、問題の男が身動ぎ、うう…と唸る。
「……ミューラー?」
寝起きの掠れた声が鼓膜を揺らす。皇帝のお目覚めのようだ。ミューラーは足を止め、ゆっくりと彼をおろす。地面に足を着いた彼は少しよろめきながらも倒れ込むことなく、何とか立っている状態だ。肩を貸そうか?ミューラーがそういえば、大丈夫と首を振った。
「気分はどうだ?皇帝さん」
少しばかり嫌味を込めて額を押さえているシュナイダーを見る。
「悪くはないが、良くもない…」
ミューラーが、少し休むかと提案すれば、彼はおとなしく頷いた。
彼らが訪れたのは小さな公園。夜も遅いため、そこには誰もいない。静まり返った公園に彼らだけ。心細くはないが、言いしれぬ不安がミューラーを襲う。見慣れない風景に身体を強ばらせる。昼間とは違う側面をみせるそこに、警戒しているのかもしれない。二人はベンチに腰を下ろした。隣に座っているシュナイダーを見れば、空を向いて目を閉じている。一見辛そうだが、その呼吸は穏やかであり、今はそれほど辛くないことが伺える。
「飲み過ぎだ…な」
当たり前といえば当たり前。あれだけハイペースに、しかも空腹の状態で飲んでいれば悪酔いもするものだ。しかし、本当に珍しい。そんな珍しいワンシーンに遭遇できたのは幸か不幸か…微妙なところである。彼がここまでなるには何かしらの理由があるはず。あまり、こういうことを詮索するのは好まないが、今回は自分も巻き込まれたということもあり、その理由を問いただそうと口を開いた。
「シュナ」
「緊張してたんだ…」
彼の言葉を遮るように、シュナイダーもまた口を開く。
「緊張?」
「ああ、お前と話すどころか、会うのでさえ緊張してたんだ」
何しろ、久々だったからな。閉じていた目を開き、ミューラーの方を向く。その眼はあまりにも真剣で、どうやら彼が冗談で言っているのとは違うようだ。何が彼を緊張させているのかミューラーには見当もつかない。
「ふん…だからといって潰れるほど飲む必要もないだろ?」
「それぐらいしないと、オレはお前に触れることができないんだよ。ミューラー」
「は?」
聞き間違いか? と思うほどに、彼の言葉の意味が、いや、彼の言葉自体が耳に入ってこなかった。ミューラーは眉間に皺を寄せてシュナイダーをまじまじと見る。困惑しているのか、あきれかえっているのかそんな表情をしているミューラーに彼は思わず吹き出してしまった。そのせいか、シュナイダーの身体から緊張が解けたように見て取れた。それにつられ、自分自身の不自然な強ばりも解ける。その瞬間お互い緊張していたのだなと気づいた。きっとお互い、何らかの形で意識していたのだ。そんな気がしてならなかった。彼らは声を潜めて、ひとしきり笑いあう。
「オレはさ。お前に触れたくて触れたくて仕方がないんだ。今日顔見た瞬間から、さ。なのにお前はしれーっとしていつもと変わらないじゃないか。こっちがもの凄い緊張してるっていうのに」
「…気づかなかったわけじゃない。ただ、気のせいだと思っていただけで」
せめてもの強がり。居酒屋で聞いた、あの掠れた、熱のこもった声…そう、気付かなかったわけではないのだ。ただそれもほんの一瞬だけで、その後の展開のせいでその熱についてすっかり忘れていただけだ。
「……だろうな…」
そう呟いてうなだれるシュナイダー。
「だから、無理矢理触れるのもオレは嫌だったし、お前に嫌われたくもない。だったら……」
酔いつぶれて、何かしらあった方がいいじゃないか…。彼はそういって締めくくった。
何かしら…何かしら? いったい何があるというのだ。彼が期待していることはわからんでもない。しかし、それを自分が拒む理由がどこにあろう。少なくとも、彼だけでなく、自分もまた彼を想っているのだ。触れられたことが原因で、嫌いになることはまずないと言える。ただ、彼にとって本当に自分で良かったのだろうか。ふと、そんなことを考えてしまう。
「……お前ぐらいだ、そんなことを言う奴。この、変わり者め」
「それでいいんだよ」
穏やかな笑みを浮かべている彼と目が合う。
「オレにはミューラー以上に魅力的な奴はいない」
そう言いきった彼。ああ、これは本気だ。決して生半可な気持ちで口にしているわけじゃない。お互い、口に出すのが下手だっただけ。今、それをぶち破ったのはシュナイダーの方だ。好きだとか、愛してるだとか、そんな言葉は一切ない。だが、そんな言葉使わずとも、彼の気持ちが痛いほど伝わってくる。しかし、彼の、シュナイダーの口振りからすれば、きっと自分の気持ちなどこれっぽっちも伝わっていないのではないか。それもそのはず、よく考えてみれば、自分が彼に気持ちを伝えたことがない。それならば、彼が知る由もない。シュナイダーはこんなに分かりやすい形で伝えてきたというのに…。何をどう伝えればいいのかわからないミューラーであるが、何か一言でも言わなければ、そんな気持ちに駆られて口を開く。
「…シュ」
「まあ、やっかい者に惚れられたと、諦めてくれ」
寂しげに笑う彼に、ミューラーはいてもたってもいられなくなる。大きな身体を縮め、笑う彼の喉にそっと唇を落とす。それはとても優しく、触れるだけ。言葉にできないのであれば、行動で示すしかないのだ。
――あなたがほしい、と。
「…大胆だな」
「仕方ないだろ、言葉が見つからないんだ」
「…間違いじゃないよな」
「………たぶんな」
その言葉を聞いたとたん、シュナイダーはミューラーを抱き寄せる。彼に求められたことへの喜びなのか、それともミューラーの想いを知ることができたことへの感動なのか、彼の腕は少しだけふるえていた。しかし、それでも何も言わずに彼はミューラーを抱きしめ続ける。
もう二度と離さぬようにと。
プロフィール
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