「最近、ワカバヤシに会ったのか?」
塩味の強いブレッツェルの切れ端を頬張りながら彼は確かにそう言った。視線を手元に向けたままモゴモゴとしゃべっているのに、確かに『ワカバヤシに会ったか?』と聞いてきたのだ。
テーブルを挟み、簡単な夕食の最中、なぜそんな話題になったかわからないが、突然ミューラーは何かを思い出したかのようにそう聞いてきた。別に彼にワカバヤシを連想させるような言葉やセリフなど一言も発していないのに、である。ただ、彼の発したセリフは、シュナイダーの食事を止めるには十分すぎる効果を発揮していた。ライ麦パンを千切る手は止まり、表情動かず、黙ったまま正面のミューラーを見る。いや、見るというよりは、ただ視線がそっちを向いているだけ。目の前に座る大きな男の動作や表情など一切頭に入ってこない。見えているはずなのに、見えていない。いま、シュナイダーの思考は全ての感覚から切り離された位置にある。傍から見ればそれは文字通り『石になる』という表現が最も適しているのではないだろうか。
突然動かなくなったシュナイダーに一瞬視線を向けるが、すぐに目をそらし、今度は自分の皿に盛ってあるヴァイスヴルトスの皮むきに取りかかる。それはシュナイダーがお土産に…と、彼の元へ持ってきたものだ。固い皮をナイフとフォークで器用に剥き、中身を取り出してマスタードをつけ美味そうに食べる。その姿を愛おしく想い、顔をほころばせながら眺める…いつもならそうするはず、そうなるはずなのだ。しかし、いまのシュナイダーにそんな余裕などない。愛おしいと思うものの、感情と考えが一致していない。それは全て彼の一言のせいなのだ。『ワカバヤシに会ったか』それが彼の頭の中を埋め尽くす。やましいことなど何一つもない、清廉潔白だと胸を張って宣言できるはずなのに、なぜか嫌な汗が背中を滑る。疑われているのであろうか…
別にワカバヤシとは何の関係もない。ただ、ハンブルグ時代、共に戦い抜いた戦友のようなもの。そんな彼をこちらに引き抜くため、彼の元を訪れただけだ。確かにその時、それらしいセリフを言った気もするが、それはただの冗談であり、あくまでもチームメイトとしての誘い文句であり、それ以外に意味はない。それはワカバヤシも十分に理解しているはずだ。シュナイダーは懸命に自身の内側でこの件に関しても弁解をするも、そんなことミューラーに伝わるはずがない。
動かぬシュナイダーにミューラーは首をかしげるが、だからといって声をかけるわけでもない。それがまた恐ろしくもあった。正直、現時点で彼の質問の意図がつかめない。よくよく考えてみれば、彼の発した一言が、自分を責めたてるつもりで言ったのか、それともただの確認なのか、それすらわからないでいた。もし彼が嫉妬しているとしたら…いや、彼が嫉妬することなどあるのだろうか。
彼と付き合い始めてこのかた、それらしい感情一つ見たことがない。それどころか、こちらがその感情に飲み込まれてしまうことが多々あったぐらいだ。彼の寛大さや自信、さらには面倒見の良さなど…初めて会った頃よりはかなり柔らかくなっていった彼だ。そんな彼はさらに魅力的になり、それと同時に自分の中にある厄介で原始的な、もっとも人らしい感情が大きくなっていくのがわかった。彼を苦しめるつもりはないが、かといって自分が苦しむのも意味がない。そんな感情に支配された時は、なによりも素直に、彼にそれを伝えるのだ。それが一番確実な方法。すると彼は困ったように笑いながら、気を付ける、と一言だけ返すのだった。そんな彼が嫉妬することなど…いや、彼も人の子。そんな感情の一つや二つあるのかもしれない。そうであるならば、嫉妬は愛情の裏返し…そう考えれば自然と頬も緩むもの。しかし、嫉妬することがどれだけ苦しく、辛く、如何なる慰みも受け付けぬ厄介なものであることはシュナイダー自身十分理解していた。彼にそんな、何とも言えぬ苦痛を与えてしまったであろう自身の行動を恥ずべきことなのかもしれない。
「シュナイダー?」
何の反応もない、石のようになってしまったシュナイダーに、食事の手を止めやっと声をかけるミューラー。そう言っても、もう彼の皿は綺麗に片付いており、残されたのはホウレンソウのスープのみだった。
「あ……ああ、最近…確かに会ったけど…」
それが何か…とシュナイダーは続ける。あえて何もないように、頭の中をグルグル渦巻いていた疑念や彼に対する弁解などすべてを覆い隠すかのように、平然と冷静に答えた…つもりだった。しかし、自分の耳に届いてきたのは固い、強張った声。これでは彼に疑われても仕方がない。
「そうか…で? どうだった?」
「…え?」
どうだった…どうだった? 何がどうなのだ? やはり彼の意図がわからない。彼に、ワカバヤシに会いに行ったことなど、ましてや誘いに行ったことすら一言も伝えていないのに、彼の口ぶりはさもそのことを知っているような、そんな風に見て取れた。ここまで焦らされるのであれば、いっそのこと怒鳴り散らしてくれればいいのに、と思う。確かに気分はよくないが、それでも幾分か話がしやすくなる。
「元気そうだったか?」
「あ…ああ、元気そうだった…ぞ。でもなんでそんなことを」
なぜ彼がここまでワカバヤシを気にするのか。先ほどまであった不思議なうしろめたさはいつしか薄れ、次にあらわれたのはあの、厄介な感情だった。知らないはずのことを知っていて、彼の体調など気にかけ…もしかしたら、ミューラーが気にかけているのは自分ではなく、ワカバヤシの方ではないか…そんなことすら考えてしまう。一度首をもたげた嫉妬の蛇はそう簡単に静まりそうにない。つまらぬ嫉妬と言われればそれまでだ。それでも彼らの繋がりを見ないふりをするのは難しかった。彼のことを何でも知りたいと思うことは果たして悪なのであろうか。彼を苦しめる結果となるのだろうか。だが、たとえそうなったとしても、やはり自分は知りたいと思うのだ。
ジッと見つめてくるシュナイダーにフッと微笑みかけるミューラー。
「ああ、この間ワカバヤシから連絡があってな。シュナイダーが口説きに来た、って笑いながら話してたからさ」
喉の奥で笑っているミューラーであるが、シュナイダーは何一つとして面白くない。ワカバヤシから連絡があった…その一言で、彼の蛇が一気に動き出す。彼に聞きたいことは山ほどある。薄れかかった後ろめたいという感情は消えるどころか、一気に吹き飛んだ。
「…ワカバヤシと連絡取ってるのか」
「え? ああ、稀に向こうから電話があるぐらいだがな」
まぁ半年に一回ぐらい…とミューラーは付け加える。
「…お前から連絡したりしないのか」
「しないね」
間髪入れずに、彼はそう返してきた。その物言いに彼が嘘をついていないことなど明白だった。もともと嘘を吐くのがへたくそな彼のこと、もし嘘を吐くのであればもっとわかりやすく態度や表情に出るはずだ。今のところ彼にそういった怪しげなところは見当たらない。
「だいたい、おれがワカバヤシに連絡する理由がない」
彼が言うのであればそうなのだろう、と信じたいのはやまやまだが、無条件で、手放しでそうすることは今のシュナイダーには難しかった。何か一つ、決定的なものがほしい。この何者の慰みも受け付けぬ、厄介な感情を唯一鎮める決定的な何かを。
「で? 無事に口説けたのか?」
意地悪な笑みを浮かべるミューラーにシュナイダーはムッとする。知っているくせに…。彼は心の中でそう呟いた。ワカバヤシから連絡が来るぐらいだ、詳細など彼の口からきいているに違いない。自分が言わずとも、彼は結末を知っているはずなのに、あえて彼は自分に言わせようとする。それには何かしらの理由があるはずだが、そんなことを散策する余裕はない。
シュナイダーは顔をしかめたままそれに答えた。
「見事に振られたよ。あいつは向こうが好きなんだと」
オレは二の次だそうだ。半ばやけくそのように言い放ったシュナイダーを見て、正面の彼はフッと笑う。先ほどのような意地悪そうな笑みではなく、とても柔らかく笑うのだ。
「だろうな」
「ん?」
「ゴールキーパーなら、ましてや腕に自信のあるやつならきっとお前の誘いを断るだろうな」
「…なぜ……」
「そんなの簡単だ。お前のシュートを止めたいからさ。ドイツ国内でそれだけ、キーパーを夢中にさせるシュートもそうないだろ? いくら練習があるからとはいえ、やっぱりやるなら公式戦での真っ向勝負が一番いい。それならあえて対立しとくのも悪くはない。それにJrユース前から何回か点取ってるんだろ? それじゃなおさら同じチームにはなりたくないだろうな。たぶん、あいつのプライドがそれを許さんさ。それに…」
たとえ、おれが口説かれたとしても、あいつと同じ、胸を張って断るだろう…。
酒に酔っているわけではないのに饒舌な彼がとても珍しい。口角を上げ楽しそうに話す彼の眼はフィールドに立っているときのあの眼と同じ。ギラギラとした自信に満ち溢れている。そんな眼の色を今ここで見ることができると思わなかったシュナイダーは、しばらく彼の表情を眺めていた。
彼もまたワカバヤシと同じゴールキーパー、ワカバヤシの気持ち、わからなくもないのだろう。絶対的な自信、それが彼らの似たところでもあれば、共通点でもある。感情の共有…彼が最も得意とする分野において、分かり合えるものがあるというのはどれほど羨ましいことだろう。
同じフィールドに立てば、「勝利」というものを渇望する。それはどこでも同じ。しかし、その細部を見ればそれぞれのポジションで望むものは違う、思うこともまた違う。如何に点を取るか、如何に守りきるか…フィールドに立てば互いが正反対で対立すべき位置にある。それゆえ細部の感情の共有というものが若干難しくなる。正直な話、彼とはそういったところまでも知りたいと思うし、また伝えたいとは思う。だが、ポジションの違いというものはこれ意外に厄介である。シュナイダーもなかなか知ることができないその感情を彼らはいとも簡単に知ることができる。その関係性をシュナイダーは羨ましく、また、憎らしくもあったのだ。
「しかし、お前もやけにワカバヤシにこだわるな…なんかあったのか?」
彼は猫のようにその大きな目をスッと細める。何か言いたそうで、どんな言葉を紡げばいいかわからないといった、そんな表情。その顔を見た瞬間、シュナイダーは眉を上げる。もしかして、まさか、彼が、嫉妬? そういったことに疎いであろう彼が…まさか…。
「いや、何もない。ただ彼は来ればうちのチームはさらに強くなる。それだけだ」
「……………」
疑っているのか、いまだに彼の目は細いまま。
「…お前を誘わないのは…誘ったところで絶対断られると思ったからさ。今のチームが好きだろ? 試合してるときのお前の顔見てたらあぁここが合ってるんだろうなって思って。それに………たとえサッカーのことであっても、ミューラーに断られるのは…正直きついんだ」
「…きつい?」
「そう、どんなことでもお前にはオレを受け入れてほしい。NEINなんて言葉聞きたくないんだ。我儘で、自己中心的な考えかもしれないが、これは本当のこと。お前に拒否なり、否定なりされたら、オレはおかしくなるかもしれないな。それに、オレをこんな風にできるのは後にも先にもミューラーだけだ」
狡猾…そう言われてもしかたがない。いま、この言葉で彼を縛り付けた。だがこれは縛り付けるだけのために紡がれたセリフではない。この言葉は本心であり、まぎれもない事実でもある。
彼から放たれる否定的なセリフは、思考を停止させるには十分すぎる効果を発揮する。どうしていいかわからなくなり、右往左往したことが何度かあった。本当にらしくないのだ。おかしくなると言っても過言ではない。それだけ、彼の言葉は自分にとって大きな意味を持っているのは確かなこと。
シュナイダーの言葉を聞き終えたミューラーは大きくため息を吐き、テーブルに肘をついて額を押さえる。彼の意外な反応にシュナイダーは首をかしげた。
「ミューラー?」
「…………バカが…」
彼のつぶやきがシュナイダーの耳に入る。太い腕に隠れて彼の表情は見えないが、その耳はすでに真っ赤に染まっている。
「……お前のこと、拒否も否定も…するわけねぇだろ…」
「…………」
「そりゃ、サッカーのこととなると話は別だが、おれは、その、お前との関係は悪いものじゃないと思っているし、うん…なんというか、心地良いと思ってる。それを、わざわざぶち壊すような真似なんて…するもんか」
ボソボソと話す彼の声は確かに聞き取りにくかった。聞き取りにくいはずなのに、彼の声は、言葉は、すんなりと耳介を通り鼓膜をこえて自身の内側に染み込んでくる。
不安だったのかもしれない。自分の感情と、彼の想いが、どこかずれているのではないかと。それはほんの些細なボタンの掛け違いのような不安だったかもしれない。しかし、積もり積もったその不安が、『ワカバヤシ』の存在により表面に現れ、そして自分に、そして彼にこのようなセリフを吐かせたのかも知れない。
求める側と与える側…今の自分たちの関係はこの状態。自分は求める側、彼は与える側、いつもそうだった。彼は求めることはほとんどなく、ただ己に与えるだけ。そして自分は求めるだけで、与えるものなど微々たるもの。一方的に求め続けていけばきっと、視界を遮られたような漠然とした不安に襲われるだろう。相手に受け入れてもらっていることがわかっていても、どこか空をつかむ様な不安。そしてそれは形を変え、摩擦を起こし、苦痛と憎しみ、そんな負の感情を生み出す原因となるのだ。それだけは、避けたかった。しかし、いま、その不安が一気に溶けて流れる。
彼の言葉…本当に自分が一喜一憂するのだと、シュナイダーは少し驚く。本来なら互いに求め、与える関係でありたいとは思う。それは理想。しかし、今はまだ自分にその余裕がない。常に飢えを抱え、彼を求めてやまない。与える余裕などないのだ。それが不安の原因の一つであったのかもしれな。もしミューラーが与えることを苦痛に思っているのであれば…果たして自分は求めることをやめることができるのであろうか。答えは否。できるはずなどない。そんなこと、できるのであればもっと前からそうしているはずだし、こんな不安を募らせることもなかったであろう。しかし、彼の言葉から、少なからず今のこの関係が良いものであることを知った。それが何よりもうれしく、己の中にあったわだかまりを解消してくれた。
「…なぁミューラー……」
彼はまだ熱が取れぬのか、その愛らしい顔を上げてはくれない。ただ、照れ隠しなのか、低く唸り声に近い返事があるだけ。
「オレが今どんな気持ちか…わかるか?」
「……知るか」
察することがへたくそで、すべてを言葉にしてやらないと彼には絶対に伝わらない。そう、今の気持ちを的確に簡潔にわかりやすく彼に伝えることができる、そんなセリフ。
「今すぐベッドに行きたい」
「…なっ!?」
案の定、彼は勢いよくその顔を上げる。
「いや、ここで言ってもいいんだが、多分ミューラーには聞くに堪えない言葉ばっかりだと思う。うん、きっと真っ赤になって倒れるとおもうぜ? どうせ倒れるなら…」
ベッドの上がいいだろう? テーブルから身を乗り出し、自分を凝視している彼の耳元に唇を寄せ囁けば、彼は後ろに倒れんばかりに身をそらす。何か言いたそうに震える唇に人差し指を当て、フッと笑うと、シュナイダーは空いた方の手でベッドルームを指した。それに対しミューラーはというと、彼の指に塞がれた口を動かすことなく唸り声をあげ、ギュっと目を閉じ、反対に位置するバスルームを指す。彼の意外な行動に片眉を上げるシュナイダーであるが、すぐに薄笑いを浮かべる。
「Alles Klar」
興奮を押し殺したような落ち着いた声でそういうと、彼を立ち上がらせ、その腕を軽く引き、ミューラーの指した方へ歩みを進める。鼻歌でも歌い出しそうなほど機嫌のよいシュナイダーにミューラーは本日二度目のため息を吐いた。
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