溺れている。確実に溺れている。フィールドを離れてしまえば、頭の中に浮かぶのはすべて彼のことばかりだ。自分でもここまで溺れるとは思ってもみなかった。いや、ここまでプライベートで誰かに執着できるなど、自分にはとうてい無理だと思っていた。それが今はどうだろう。確かに自分は彼が好きでたまらない。なぜ好きか、どこか好きか、どうして好きになったのか…。そんなこと、自分が知る由もない。強いて言うなら、一目惚れ。それ以外に的確な言葉が見つからない。
忘れもしない数年前のJr.ユース、ウルグアイ戦。ウルグアイ側の直接フリーキック…正直不安がなかった…とはいいがたい状況。実際、ビクトリーノには先制点取られたわけだし、たとえあの時点で同点だったとしても、さすがにこれ以上点をやるわけにはいかなかった。そんな時の、まさかのフリーキック。自分にできることは限られているわけで。まあ、たとえ点を取られたとしても、また取り返せばいいだけのことだった。
シュナイダーはのそのそと目の前を行ったり来たりしている男をじっと見つめる。ソファに座っているだけ、シュナイダーはテレビを見ることもなく、ただただ彼の姿を目で追っていた。彼はそんな視線を感じてか、時々肩越しに振り返り、シュナイダーの姿を確認する。そんな動作一つ一つが愛おしくて頬が緩む。
そう、あのピンチに現れたのはデューター・ミューラー。幻のGKと言われた男。同じ年のくせに、身体は大きく、一見熊のようにも見えた男。ある意味救世主だったのかもしれない。その身体に似合わずの反射神経の良さ、スピードにパワー。すべてが圧倒的だった。そして、目が合う。不遜な態度の彼から発せられた賞賛の言葉。忘れることなどできるものか。大きな眼をスッと細め、嬉しそうに、楽しそうに笑みを浮かべる。その姿が、あまりにも印象的で、己を魅了した。これは紛れもなく、一目惚れ。そのままズルズルと彼に溺れていくのだ。それは今でも変わらず、彼に会うたび、彼の姿を見つけるたび自分は恋に落ちている。そうでなければ、終始笑みを浮かべて、飽きもせず彼を見つめ続けることができようか。
「シュナイダー…さっきから何だ。おれに用があるならさっさと言え」
しびれを切らしたか、それともシュナイダーの熱の籠もった視線に居心地が悪くなったのか、彼は手を止め彼に向き直る。自分のために一生懸命食事を準備してくれている彼の手を止めさせるのはとても悪い気がするが、それ以上に彼が自分の方を向いてくれることの喜びの方が強かった。
「いや、用という用はないが…」
「ないが?」
「可愛いなと思って」
喉の奥で笑っているシュナイダーに対して、何も面白くない、といった表情をするミューラー。
「そんなバカなこと考えながらニヤニヤしてたのか…。ほかに考えることがあるだろうが」
本来なら彼に怒鳴られる場面ではあるのだろうが、なぜか、ミューラーはシュナイダーに対して怒りという感情を表さない。怒りと言うよりは呆れのほうが彼の中で勝っているのだろう。しかし、呆れかえってはいるものの、彼はそんな自分を拒否することなく受け入れてくれている。素直で正直な彼のこと、嫌であればその場で拒むはず。そう、それはこの関係が始まる前から、いや、彼にその気がなければこの関係自体存在はしなかっただろう。はじめから…。
自惚れているわけではないのだが、少なからず、彼は自分に良い、自分と同じような感情を抱いていることは、彼の醸し出す雰囲気でわかる。だから時々、彼のそういった感情を表に出させようとかまを掛けたりもしてみる。それは別に今でなくても、ベッドの上で確認すればいいのだが、今はそんな気分じゃない。今は、彼の言葉で、声で聞きたい。好意を出すのが下手な彼である、そうした機会を作ってやらねば、彼はもとより、自分もダメになってしまう。常に、彼に想われていることを確認しておきたいのだ。
「バカなこと? そんなことはない。せっかく一緒にいるんだ。ミューラーのこと以外に何が考えられ?」
「……あー…ほら、…家族のこととか……チームのこととか……」
「家族もサッカーも好きだし大切だ。でもそれと同じぐらいにお前が好きだ」
ソファから立ち上がり、一歩一歩ミューラーに近づく。シュナイダーの真っ直ぐすぎる告白に彼は唸るだけ。目は泳ぎ、その視線はシュナイダーをとらえようとはしない。シュナイダーはそんな彼の目の前に立つと、自分より高い位置にある頬を両手で挟み込む。そして軽く自分の方に引き寄せた。彼の首はすんなり、なんら抵抗もなく素直に自分の方に寄ってくる。泳いでいた目がシュナイダーをとらえた。大きな眼、灰青色の瞳、やっと眼があったことにホッと胸をなで下ろす。あの時、初めてあって、自分が恋に落ちるきっかけとなったこの瞳。やっと自分を見てくれた。
「…こういうのは」
「お前は?」
「は?」
「オレはミューラーが好きだ。お前は?」
好きじゃないとは言わせない。いや、言わせないのではなく、そんな言葉存在しないものとする。シュナイダーはスッと眼を細め、彼の言葉を、声を待っている。それはきっと彼自身にも伝わっているだろう。
「……何も想ってない奴のためなんかに、わざわざ料理なんか作るか…」
ミューラーの眼がまた彼から逃れようと横に動いたその瞬間、シュナイダーは彼の名前を呼ぶ。
「……あー…んー……嫌いじゃな」
「デューター…」
「……好きだよ! くそっ!」
彼の頬にサッと紅が差す。本当に彼はこういったことが苦手だ。だが、この人ことを聞くだけで嬉しさに身が震える。行動で好意を表してくれるのも嬉しい。しかし、時々はこうやって声にして欲しいのだ。そして、それが当たり前になってほしい。恥じらう姿もまた良いのだが、それは夜の楽しみでいいだろう。高望み? 上等だ。妥協なんかいらない。
未だに赤みの引かない彼の顔を引き寄せ、薄い唇を軽く吸う。そしてそのまま頭を抱え込んだ。柔らかい長めの髪に顔をうずめる。ただただ、幸せで、満たされているこの状況を手放すつもりはない。今後、これからもずっと。誰かに奪われるなどもってのほか。
もうしばらくこのままで、そんな想いを込めながらシュナイダーは強く彼を抱きしめた。
プロフィール
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