一年たったところで、たいして二人の関係は変わっていないように感じる。それは佐野の素直な、率直な感想だった。
今日は何を隠そう、先輩であり、良き相棒であり、想い人でもある人の誕生日である。本当は恋人…と言いたいところだが、それを思うのは少々恥ずかしいのである。しかし、佐野の顔はどこか浮かない。いつもの不敵な笑みを浮かべている彼が、珍しく眉間にしわを寄せ唸るという、そうお目にかかれない表情をしている。本来ならば、彼の生まれてきた日を喜び全身全霊込めて、いの一番に「おめでとう」と言ってあげたいのだ。しかし、今の佐野にその元気はない。彼の頭の中を駆け巡る悩みの種、それはやはり彼のことで。
「佐野! 集合タイ!」
グラウンドの中央で次藤が叫ぶ。はっと顔を上げれば、部活の真っ最中であることを思い出す。そんな単純なことを忘れてしまうほどに自分は悩んでいたのかと苦笑を漏らした。普段ならサッカーに集中して周りも見えないくらいに駆け回っているはずなのに、今日はそんなことも出来てやしない。それどころか、その異様なまでの集中力が別のところで使われている状態である。これではだめだと、大きく首を振り、次藤の呼び声に軽く、あくまでもいつも通りに返事をすると彼の元へかけていった。
今日は本当に、散々だった。散々としか言えない状況に言葉数少なく、ため息しか出ない。準備運動は良しとして、試合形式での練習はさっぱりだったのだ。集中できるよう頭をサッカーに切り替えようとするも、ちらちら視界に入る彼にどこか目を奪われる。なんらいつもと変わりないはずなのに。その後も状態が好転することはなく、思い通りに動けない自分に苛立ちさえ覚えるようになってきた。取れるはずのボールが取れない、シュートも思い通りに決まらない。挙句の果てに、やけくそでオーバーヘッドキックを繰り出すも、見事に、それはもう見事にボールに触れることなく空を蹴る。さらには、着地に失敗し、固い地面に叩きつけられてしまう。幸い擦り傷程度で済んだものの、試合からは外され、隅っこで一人ストレッチをしながら本来自分が駆け巡るはずであったグラウンドを眺める羽目になった。
「はあ…」
大きなため息と一緒に出てきたのは、自分の不甲斐なさと、精神的な弱さ。ほんのちょっとしたことで好きなサッカーができなくなるとは思いもよらなかった。しかし、それはサッカーと同じぐらいに彼を想うが故……と思考の変換まではできる状態ではなかった。
「どがんした佐野。お前今日調子悪そうやったが」
トボトボ歩く佐野と並んで歩くは次藤。部活も終わって二人は帰路につく。次藤は大きなため息を吐く彼の方をちらりと見やる。いつもの元気はやはり見受けられない。
「調子悪そう…ですよね。身体はいたって元気なんですが」
「悩み事か?」
「悩みと言えば悩み…なんですが」
その原因は貴方なんです。とは口が裂けても言えない。
「ワシには言えんと?」
「あー言えなくもないんですが、言うには勇気が要りますね」
「ほー…んー…。まぁその勇気が出たときにでも言ってくれれば良かタイ」
そう言うと、次藤の手が佐野の頭を軽くたたく。そんな彼の姿を見て、手の温もりを、やさしさを感じてしまえば、自分の悩みなど、とてもちっぽけな物なのではないかと思えてくる。そして、そんな彼にどこか安心感を覚えるのである。そのせいなのか、佐野は急に空腹感に襲われた。肩の力が抜けたから、ホッとしたからなのかはわからないが、とにかく腹が減ったのだ。今日はそんなに動いていないとはいえ、成長期の男の子、何もせずとも腹は減る。隣を歩く次藤に聞こえるぐらいに佐野のお腹が声を上げた。
「なんタイ。腹が減ったと?」
「…おなか減りました」
彼の返事に次藤は豪快に笑うと、よかよかと頷く。
「腹が減っとると碌なことば考えん。腹ば膨れればお前の悩みも吹っ飛ぶタイ」
そんな簡単なものじゃないと思っていても、彼がそういうのであればきっとそうなのかもしれない。
「じとーさーん! おなか減りました! 何か食べに行きましょう! 俺が奢りますから」
「後輩が奢る必要なか。気ば使わなくてよか」
「そんなこと言わないで下さいよー。だって今日次藤さんの誕生日じゃないですか。ほら、プレゼントだと思って奢らせてください」
「…誕生日?」
次藤は彼の言葉に首をかしげる。その仕草から、佐野はもしかして日にちを間違たのではないかと焦りを覚える。
「じ、次藤さん…今日、誕生日ですよ、ね…?」
日にちを口に出し、確認すれば、ああそういえばそうだった、となんだか他人事のような返事が返ってくる。
「もしかして、忘れてました?」
「あぁ、誕生日なんて頭ン中になかっタイ」
「えーでもいろんな人におめでとうって言われたりとか、プレゼントもらったりとかしたんじゃないんですか?」
なんだかんだサッカー部では人気な次藤。サッカー部のキャプテンで、そこそこに統率力もあり、頼れる人というのもあるのだが、なによりも彼の人柄が一番なのではないんだろうか。そんな彼のこと、少なくとも、自分が彼に、一番に「おめでとう」と言える気がしていなかった。
だが、次藤は佐野の質問に「ない」と短く答える。
「そがんもん貰っとったら誕生日なんて忘ればせんタイ」
「いや、次藤さんのことですし」
「何か言ったか」
「あ、い、いえ何でもないですよ」
軽く睨み付けてくる彼に慌てて手を振る佐野。
彼と話をしていると、いつもの自分に戻っている気がして、どこか気分がいい。それと同時に、今日会ったすべての人が、彼をまだ祝っていないのもまた佐野の気分を上げる。一番ではないと思っていたことが、実は一番だったというのはやはり嬉しいものである。
「そっかー。俺が一番か……」
自然と口の端が上がる。それにつられて気分も上がり、足が軽い。今にも駆け出したい気持ちを抑えつつ、次藤の顔を覗き込んだ。
「で、何食べに行きましょうか!」
「お前は何が食べたか?」
「そうですねぇ……」
佐野はいろいろと考えた末、二人がいつも行っているラーメン屋の名を上げた。嬉々として名前を上げた佐野に対し、次藤はというと、ラーメンか…と独り言ちり、何やら考え込む。いつもなら快諾するものだが、その動作に気に入らないことでもあったのかと少々佐野は怯えてしまう。
「あ、次藤さんの食べたいものでいいんですよ。俺今なら何でも入ります!」
慌てて言い直す佐野の顔をちらりと見る次藤。食べたかもんか…またそう呟くと、何を思ったか、佐野を引き連れて彼らもあまり足を運ばない場所へと向かっていった。
「意外といっぱい買えましたね」
「そうだな。ワシもここまで買えるとは思わんかっタイ」
両手に白いビニール袋を持って帰宅した次藤。その袋にはこれでもかというほど食材が詰まっている。そして、その後ろには、これまた両手に同じような…サイズは次藤の物に比べて一回り小さいが、そんな袋を持っている佐野の姿。
「これなら、ラーメンよりおなか一杯になりますね」
「まぁ、運よく割引の時間にあたったのが良かったな」
「本当にそうですよ」
お邪魔します、と佐野は次藤の後ろをついていく。彼らは一直線に台所へ行くと、今まで持っていた袋をテーブルの上に置いた。
袋から出てきたものは、ほぼ全てと言っていいほどの食材に、スーパーでよく見られる割引シールが貼ってあった。肉や野菜を大量ではあるが、それでもバランスよく買い込んできた二人。
「じゃ、次藤さんよろしくお願いします!」
袋の中身を一通り出し終えると、佐野は両手を上げて次藤を見つめた。
「なんばい。手伝わんとか?」
「はい!」
さっきまでも不調はどこへやら、今は元気いっぱい返事をする佐野に、次藤は眉を上げる。
「はいじゃのうて」
「俺、皮むきぐらいしかできません!」
胸を張ってそういう彼に次藤はやれやれといった感じで首を振った。
「そいで十分タイ。切らんでもよか、皮ば剥いてくれ」
彼は胸を張っている佐野に、大根やニンジン、ジャガイモに、その他もろもろの野菜を押し付ける。受け取った本人はというと、文句を言いながらもバタバタと台所を駆け巡り、ピーラー片手にさっそく皮をむき始めた。なんだかんだ素直な佐野を横目で見てはフッと笑い、次藤も己のやるべきことに向かい始めた。
「あー食うた食うた」
テーブルに並べられた、豪快にして繊細な味付けの料理たちはあっという間に食べ盛りの二人の胃の中に納まった。
「ごちそうさまでした」
コップに次がれたお茶を一気に飲み干すと、佐野は手を合わせる。
「あ、そうだ…」
手を合わせ一息ついたところで佐野は、何かを思い出したように自分の後ろに置いてある袋をごそごそと探り出す。ちらりと見えるその白い袋は、二人が行ったスーパーの物であった。
「じゃーん!」
そう言って勢いよく取り出したのは、透明なパックに入った二個入りのケーキだった。
いちごのショートケーキと、チョコレートケーキ、その二つが入っている。もちろんそれにもあの割引シールが張られていたのは言うまでもない。
取り出したケーキを次藤の自分の間において、少しはにかみながらもそれを開ける。
「えーっと、次藤さん…遅くなりましたが」
「………」
「誕生日おめでとうございます」
佐野は、その言葉をやっと言葉に出すことができた。ここまで改まって言う必要もなかったように思うのだが、それでもやはり一つのけじめをつけたつもり。大切だから、特別であるからこそその言葉の重さというものが身に染みる。
たった一言、その一言で少なくとも佐野は満たされていたのだ。彼の誕生日がもう数時間で終わる、その前に、一番にこの言葉を伝えることができたのはとても大きい。
「まったく…お前も祝ってくれんと思おとったわ」
最後の最後で出てきた小さなサプライズ。次藤は苦笑するも嫌がる様子はない。そんな彼の表情をみて、佐野は正直ほっとする。元々やさしい次藤のこと、もしかして彼が言うほど気にしていないのかもしれない。だが、佐野本人が気にし続けていたのだ、今の今まで。
そう、これこそが今日の不調の原因であった。彼の誕生日をどう祝ったらいいのか…その一点だけだった。たとえ、彼の性格や、嗜好を知っているからと言ってすぐにポンとプレゼントが決まるわけでもないし、かといってただ普通に過ごしていくのもどこか引っかかるところがある。そのせいでプレゼントは何にしよう、どんな風におめでとうを言おう、そして何より、どうしたら彼が喜んでくれるだろうか、そんなことを悶々と考えた結果がラーメンを奢るという話だったのだ。
しかし、ふたを開けてみれば二人だけでのんびり飯を食う、そんな結果となった。だが、これがある意味自然でよかったのかもしれない。変にあれこれ考えるよりもとても単純でとても素直なお祝いの方法。
「もっと気の利いたサプライズがあったんですけどねー」
なんて、嘘をついてみるが、果たして彼が気づくかどうか定かではない。
「あ、これプレゼントです」
次藤さんはこっちで…そういって、チョコレートケーキの方を次藤に渡す。選ばせてもくれんのか、またもや苦笑を漏らす次藤に佐野はニコニコ笑うだけだった。
「ロウソクでも立てましょうか」
「こがんこまかなケーキにロウソクなんて立てとったら食うとこなくなるタイ」
次藤は渡されたそれを一口、二口、三口。あっという間に平らげてしまう。指についたクリームを舐めとってはい終わり、といったように佐野を眺める。
呆気にとられたのは佐野の方。先ほどまであったものは、外側についているビニールを残して跡形もなく消えてしまった。
「次藤さん、もっとゆっくり食べましょうよ」
せっかく一緒に食べようと思ったのに…ブツブツと文句を言っている佐野を黙って眺めていた次藤は、何を思ったかおもむろに近くにあった箸を持ち、佐野の前に置いてあるケーキに腕を伸ばした。そして、上に乗っかっているいちごをつまむと、ヒョイっと己の口の中へ入れ咀嚼、そして飲み込む。
「あー!?」
「早く食べんとこうなるタイ」
「いちご食べたらもうただのスポンジケーキじゃないですか!」
「間に入っとっ」
薄くスライスされたいちごがスポンジとスポンジの間から見えるものの、それは辛うじていちごである、と分かる程度のもの。
「あー…うー…でも一番大きいの…」
「だけん早く食べろて言ったと」
うーうー唸っている佐野は、どこか不満げな表情をしながらも、丁寧にフォークを使ってほぼスポンジケーキとなったそれを食べ始めた。次藤とまではいかないが、それでも早く食べたほうである。食べ終わって一息ついていると。
「で?」
彼の食べる光景を眺めていた次藤は何の脈絡もなく、いきなりそんな声を発した。
「……で? とは…」
「満腹んなって悩みばなくなったと?」
彼は覚えていたのだ。帰り道のやり取りを。その時はあまり関心のないように見えていたが、それでも彼はなんだかんだ覚えていたのだ。肝心の佐野はというとすっかり忘れていた。この短い時間でそれはもうすっぽりと頭の中から抜け落ちていたのだ。
「言われなきゃ忘れてました」
ガッハッハと豪快に笑い、それでこそ佐野タイ、と正面にいる彼の頭を叩く。
「本当は誕生にプレゼント何にしようか、とかどうやってびっくりさせようかとか、いろいろ悩んで考えてたんですよね。でもなんか…忘れてました!」
「なんばい、そいは…」
「下手にこだわるよりも、こういった方が良かったのかなーとか。まぁ結果オーライってやつですよ! それに俺が一番におめでとうが言えたので満足です」
「…お前が満足してもなぁ…」
「あれ? 次藤さん、ダメでし、た?」
まさか、あの次藤洋という男が実は誕生日を気にしていた…なんてことはないか。もし気にしているのであれば、自分の誕生日を忘れるはずはない。しかし、何か言いたそうな次藤に佐野は首をかしげる。
「何ですか次藤さん…」
「プレゼントは?」
「…は?」
「だけん、プレゼント」
口角をキュッと上げて次藤は佐野を見つめる。
「いや、だから、さっきのケーキが…」
「去年は確か……」
彼がそういえば、佐野は一瞬で真っ赤に染まる。次藤はというと、そんな彼の変化を見ていないのか、顎に手を当てて空を見ては去年の同じ日のことについて思い出している最中だった。
「ちょ! 次藤さん! 去年は…!」
「ああそうじゃ。去年は佐野、お前がプレゼントやったな」
「あれは…その、あれで……」
本気八割、冗談二割のプレゼント。去年はそんな感じで、彼にプレゼントは自分、などと恥ずかしげもなく言ってみたものだ。そして、運よく受け取ってもらえたのは言うまでもなく。その一件から二人の関係が変化した。そう、変化…したのだ。しかし、それに佐野自身あまり気付かずにいた。それゆえ、今回の誕生日も悩みぬいたわけで。もっと簡潔、明瞭恋人同士と胸を張って言えるのであれば、今年もプレゼントは…といきたかったところである。ただ佐野にはまだそうだ、といえる自信がなかった。
しかし、その答えも、その自信も次藤が与えてくれる。いつもと同じでありながら前とは違う二人の関係。胸を張って言える日も近いのかもしれない。
「今年はないと?」
「………ほ、ほしいですか?」
恐る恐る聞きかえす。次藤はただ何も言わず、口元に弧を描くだけであった。
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