さーさーのーはーさーらさらー…。この日にぴったり、音の外れた歌が、河原から聞こえてくる。帰国中であった若林はその歌を聞き、ああ、そんな時期か…などと、ぼんやり考えていた。
若林が帰国。それはお忍びのつもりでこっそりと帰ってくる予定であった。しかし、どこからその情報が漏れたのか、なぜか国内にいる仲間に知れ渡ってしまったのだ。別に知られて悪いものではない。ただ、そう、騒ぐことでもなかろう、と苦笑いしたものだ。
修哲時代の仲間、日本代表として共に戦い抜いた仲間…そして、それ以外にも親交の深かった者まで、こぞって若林に連絡を取り始めた。滅多に帰ってこない彼はいわゆる『レア』な存在である。それゆえ、捕まえることができるときに捕まえておかないと、気が付いた時にはもう遅く、これまたひっそりとドイツへ行ってしまうのだ。何度かそんなこともあり、仲間から冗談交じりに「帰ってくるときは連絡すること」などと叱られたものだ。
それは、彼が皆から慕われている、尊敬されている証拠。それゆえに少しでも彼と話がしたい、と考えるのもわからなくもない。彼らのその気持ちを無下にするつもりはさらさらない。若林はそれらに快く応じた。むしろ、それを楽しみにしているのは若林本人ではないだろうか。少なくとも、自分の故郷に待っていてくれる人々がいるというのはやはり嬉しいもので。
帰国後、西へ東へ…と休む暇なく、あっという間に時間は過ぎ、やっと一息つけるようになったのはついさっきのこと。軽い眩暈のような高揚感と心地の良い疲労感を覚えながらなつかしき南葛市の自宅に帰るその途中、その歌は聞こえてきた。
聞き覚えのある声。
だいぶ大人らしい良い声になったとは思うもののやはりどこか幼さが抜けない。
そういえば、彼だけは、自分に連絡をしてこなかったな…とつまらぬことを考える。どんなに大々的に帰国したところで、彼から連絡が来ることはない。それどころか、昔馴染みで飲み会を開いたとしても、やはり彼は現れなかった。井沢が「あいつも誘ったんですが…」と言っていたが、行きたいのはやまやまだが用事が入ってしまったので…と断られたとのこと。偶然なのか、それとも意図的なのか…それは本人に聞くしかない。
避けられているなどと考えたくはないが近いはずなのに遠い彼。
距離が縮まる様子はない。
かわっていないな…。正直な感想。この調子だと、きっと彼の性格もまた変わることなく、昔のままなのかもしれないな。
そんなことばかりを考えながら、誘われるようにその歌の元へと足を向ける。アルコールは入っているものの、しっかりとした足取りで土手を降り、徐々に目的の場所へ近づいていく。そこには思った通り、見慣れた男が一人立っていた。陽も沈み、薄暗い中でもそれははっきりと確認できる。
見間違うはずがない。
「森崎!」
河原で何やらごそごそとしている彼の後姿に声をかけると、彼は顔をあげ、きょろきょろとあたりを見回す。そんな彼に苦笑しつつ、こっちだこっち…と言いながら近づいた。振り向いた森崎は若林の姿を確認するなり、目を丸くして固まってしまった。
「そんなに驚くなよ。森崎…」
「わ、若林さん!? な、なな、なんでここに!?」
それほど驚かせるつもりはなかったのだが、彼は異様に驚き、手に持っていた自分の背丈より高い笹を手放してしまった。軽いそれはゆっくりと若林の方へ倒れてくる。倒れてきたものを難なくキャッチすれば、森崎はすいませんといって若林の手から笹を受け取った。
「お前なになってんだよ。こんなところで」
一人で七夕か? などと茶化してみれば、違いますよ、と困り顔で笑う。
「近所の保育園で今日七夕会してたんですよ。その手伝いを頼まれちゃって…」
話を聞くに、たまたま帰ってきていた森崎をみつけた近所の奥様方が一緒にどうだ、と誘われたとのこと、断るに断れず参加していたという。
「若林さんたちみたいに有名じゃないけど、子ども達もおれのこと知っててくれたみたいで…」
もみくちゃにされました、と疲れた笑みを浮かべていた。しかし、その表情は明るく、まんざらでもなかった様子。それどころか、どこかすっきりとした顔をしている。今日のそれが、彼にとってとても良い刺激になったのはいうまでもなく分かった。
「あ、すいません…そんな理由でその…せっかく井沢に誘ってもらったのに……」
「いや、別にいいさ。会おうと思えばいつでも会えるんだ。そんなに気にすんな」
と言いつつ、気にしていたのは実は自分の方だったのかもしれない。
「で、今何やってんだ?」
七夕会…と言うには人がいない。子どもも大人も誰もいない河原に彼と笹のみ。色とりどりの短冊のついた笹が風に揺れているだけだ。
「七夕会で使った笹をここに立てに来たんです」
それが何か、と言わんばかりに森崎はきょとんとしている。
「……一人でか?」
「はい」
「……お前なぁ…」
若林は、彼のお人よしっぷりに言葉が出ない。プロサッカー選手を捕まえておいて、後片付けを彼に任せるとは何事か、ましてや、一人で。それを承諾した彼にも問題がある。
若林は己の眉間に力が入るのがわかった。
「あ、若林さん、違うんですよ。これはおれが言い出したことで、子ども達はもう寝る時間だし、お母さんたちは会場の片づけで大変そうだったし。だから、帰るついでに笹を立てに来ただけなんです」
若林の露骨な表情の変化に気づいたのか、森崎は慌てて事の経緯を説明する。森崎の慌て方に、少しだけ驚くも、そういうことだったのか…と、若林はつぶやいた。
眉間に入っていた力も抜け、相変わらずお人よしだなと苦笑する。それにつられたのか、森崎もハハ…っと笑った。
彼はこういうやつなのだ。文句ひとつ言わず、ただ笑って、困って……彼がプライベートで怒っているところなど、思い出す限り、見たことがない。
フィールドの上でもそうだ。
だた、サッカーを楽しんでいる。そんな彼だ。どんなに壁にぶつかろうとも、彼はただ、楽しむだろう。そんな気がする。苦しみながら、もがきながらもきっと彼はサッカーを全身で楽しむのだ。
頑張り屋で、自分の後ろを付いてくるような、そんな彼。
彼と共にいた時間は、そう長くはない。彼のプライベートを知るような、深い付き合いをしていたわけではない。そう考えると、自分は彼のことをあまり知らないのではないか。
人類皆兄弟、というわけではないのだが、少なくとも、今、自分の興味の対象が移り変わってくる気がした。意識してしまえば、それは急速に大きくなる。それが、どういった感情であるかは、まだわからない。どう変化するかも謎のまま。
それでもいい。
それでも、ただ、彼が知りたくなったのだ。
ひとしきり笑った後、彼はこれを立ててくる、と言って土手に近い場所に笹を持っていく。綺麗に飾り付けられた、数々の幼い願いを抱えたそれは、森崎の手によって立てられる。が、どうやらうまくいかないようで、手を放しては傾き、倒れそうになっている。そんなことを数回繰り返していた。
立てるぐらいすぐに終わるだろう、と思っていた若林は思いのほか時間がかかっていることにため息を吐き、見かねて手伝いに入る。笹の根元に石を積み上げ、土台を作る。そして、その中央に立てれば、笹はいとも簡単に自立した。あっという間の出来事に、森崎は申し訳なさそうにすいませんと言う。
「……森崎、お前願い事書いたか?」
「え?」
立てた笹を眺めながら彼に聞けば、彼は言葉を濁す。
「あ、いえ、その……まぁメインは子ども達ですから。おれはおまけみたいなもんなんで。書いてくださいって言われたんですけど…それどころじゃなくて」
そう言うと、ポケットから二枚折にされた赤と青の短冊が一枚ずつ出てきた。しかもご丁寧にマジック付きで。
「お前、マジックまで持ち歩いてんのか」
もしかして、サイン用?と、冗談めかしく言えば、首をブンブン振って否定する。
「ち、違いますよ!これは今日の七夕会のために持ってきたんです!」
「本当かぁ?」
「本当ですって!信じてくださいよ、若林さぁん」
泣きそうな声に、若林は大笑い。
「冗談だよ、冗談。お前がそんなに準備の良いやつだとは思ってねぇよ」
自分にはないこの謙虚さもまた、彼の魅力なのだろう。そう思うと、やはり湧き上がってくる不思議な感情。きっと彼は己の抱えるこの不思議な感情に気づいてはいないだろう。いや、下手をすれは一生気づかずにいるのかもしれない。せっかく生まれた感情の芽を潰してしまうのはもったいないもの。
「若林さん…意地が悪いです…」
恨めしそうに見てくる森崎の頭をポンポンとなで、その視線をもう一度、笹に戻す。
この時期の風物詩。それぞれの願いも想いもこの笹が背負っている。こんなもので願いがかなうなど……信じれるほど幼くない。
でも、どこか、それを信じたい自分もいる。
「森崎、それ貸せ」
「…え?」
「短冊とマジックだよ。ほら!」
「は、はい!」
森崎は急かされるままに、若林に青の短冊とマジックを渡した。若林はその場にしゃがみ込み、比較的平らな石を見つけその上でさらさらと何かを書く。覗き見はよくないと思いつつ、森崎は彼の手元に視線を落とすが、彼の影になっていて、見ることは叶わなかった。
何の躊躇なく書き終えると、それを笹の上の方、目立ちそうで人目に触れにくい場所に括り付けた。
「どうせなら便乗しようぜ?」
若林がにやりと笑う。
「……ハハ…」
その言葉に、森崎はやはり困ったように笑う。しかし、若林の言うことも納得できるため、彼に続き短冊に向かい始めた。
しかし、思うように筆は進まず、しばらく悩んでいた森崎。あーとかうーとか唸りながらも、それでも書き始めれば早いもの。あとは名前を書くだけ…そんなとき、横に立っていた若林がヒョイっとそれを取り上げた。
子どもっぽく素直で、それでいて何よりも己の気分を高揚させるような願い事。
自惚れと言われるかもしれないが、それでもこの高まる感情を抑えることなど難しいもの。表情に表わすまいと必死に表情筋をコントロールするが、自然と口角が上がってしまう。
奪われた森崎はというと、己のちっぽけでくだらない願い事が読まれてしまったと、顔を真っ赤にして短冊を取り返そうとするが、そう簡単に取らせてくれるものではなく、あきらめきれない表情でジッと若林を見た。
森崎の持っていたマジックもついでに奪い取ると、彼の短冊に何かを書きこむ若林。そして、自分の隣にそれを飾った。
「書くのが遅い」
「お、遅くないですよ! っておれの短冊に何書いたんですか!?」
「気になるんだったら自分で見てみろよ」
意地悪そうな笑みを浮かべている若林は首を動かし、彼に見るよう促す。
「…若林さんなんですかこれ!? っていうか何でこうなってるんですか! 何書いてるんですか! 笑ってないで、聞いてます!?」
今にも若林の身体を揺すらんばかりに迫ってくる森崎の姿にこれまた大笑いする若林。
「そう怒るなって。誰もあんなところの短冊なんか見ねぇよ」
「そうじゃなくて…ああもう……」
いたたまれなくなった森崎は両手で顔を覆うとその場にしゃがみ込んでしまった。その横に若林は腰を下ろす。
「なぁ…もう一回歌えよ。おまえのへたくそな歌…」
陽は落ち、空には星がちらほら。満点の星空とは言い難いが、それでも心地のいい時間が流れる。
「下手だと思うんなら、歌わせないでください」
顔を伏せたまま不機嫌そうに言う森崎。しかし、満足そうな彼の命令…もといお願いとあれば、聞かないわけにはいかない。ほかのだれも聞いていないのだから、と若林の最後の一言を聞き、少しだけです、とまたあの歌を歌い始める。やはり音は外れていた。
風になびく二枚の短冊。人目につかず、数日後にはきっとこのままいつの間にかひっそりと燃やされてしまうのだろう。
それでもいい。願いなど己で叶えるものなのだ。
今までずっとそうしてきた。
今日のはただの気まぐれで、そして一つの宣言でもある。
誰にも分らない、自分だけがその意味を分かる宣言。
きっと、隣の彼もわかることはないだろう。彼がこの意味を理解したとき、どんな反応をするだろう…想像するだけで笑いがこみあげてくる。ゆらゆら揺れる願いに、へたくそな歌。七夕も悪くない。若林はそう微笑んだ。
『尊敬する人に近づけますように。SGGK』
『彼を知り己を知れば百戦殆うからず。SGGK』
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